じゃぽにかとドラゴンボールの関係性
オキュパイ・スクール三限目、じゃぽにか。
炎上アーティストとでも言えばいいかな…
炎上アーティストとしてチンポムと比べられるけど、個人的に別物だと思う。
じゃぽにかについて詳しく知りたい人はこれを読もう。
はい、本題に入ります。って言ってもまとめる自信なし、じゃぽにかはログミー殺しといっても過言ではない。
『光る 雲を突き抜け Fly Away〜』
…いきなりCHA-LA HEAD-CHA-LAから始まる。
どーも、Z戦士です。
緑の如雨露の象は講義者の大事なアイテム。緊張をほぐすための。
文字に起こすと意味不明さと滑り具合が増しますね。
ふざけてる感じだけど真面目に考えてきたんで。
オレ達お前の指示でこんなふざけた格好させられてるけどさ。
聞いてればいい?
…こういう台本のネタ見せだと思おう!
何故ドラゴンボールの話なのか?
ドラゴンボールをどう読み解いていくかで世界変わっていく。
という風に考えているんでみんなに伝えていきたい。
『ドラゴンボールの時空間表現』
皆さん漫画読まれますか?ドラゴンボール読んでないよという方いらっしゃっいますか?
結構いますね、女性の方。
実は水嶋氏も読んでいない(笑)
早くも共通の話題崩壊。
アニメは見たそうです。
何故、ワンピースやナルトよりもドラゴンボールの方が面白いのか?
ドラゴンボールの世界は他のどの漫画よりも広く感じる。これが命題。
他の漫画よりも世界観が広大に広い空間で、キャラクター達が大暴れしているのが表現出来ている。
何故広い世界観が表現出来ているか?
端的にいうと、キャラクター達がナメック星とか地球とか移動するわけですよ。色んなキャラクターが、色んな思惑で動いて行く。
移動しながら世界全体の様子を描いていく。
戦闘のスタイルでよくあるのが、こっちで戦闘が起きている。それで、そこに向かって飛んで向かっているよっていう設定なんです。
その一連の流れを描いていくバトル形式をいくつもいくつも描いていく。
それ、僕ら(じゃぽにか)みたいだな。
文章書きながら訳わかりませんが、説明と同時に外野が常に絡むというじゃぽにかスタイル。
時間と空間を相関させる。
それがドラゴンボールの中で繰り返し繰り返し描かれている。
オレ話してるんだからさ、邪魔しないでよ。
はい、同時進行で邪魔が入り続けます。
ドラゴンボールがコマ運びがよくて、リズムがいい。
これ天さんやで、てーんさん。
もうちょっと聞いて。
いつ邪魔していいかわからへんもん、間が。
オレ達、邪魔しろって命令が出されてるから。
さぁ誰かドラゴンボールじゃなくてじゃぽにかを読み解いてくれ…
オレが邪魔しろっていったみたいに言うのは止めてくれ、オレは昨日このレクチャーを徹夜で考えたんだ。
ふーん。でも、途中で第三の目描いてっていうとったやん。
ちょっとね、落ち着け、まだ早い。
もうちょっと時間ある。
ドラゴンボールのコマ運びがどうなっているか?
フリがあってオチが描かれる。
僕らが一番得意なフリとオチ。
*この間も玩具の銃ぶっ放したりやりたい放題が同時進行しています。
フリのコマとオチのコマを作るって事をひたすら繰り返しながら動作を作っていく。
そのパターンを変化させる。リズムの変化。
フリ→オチ→オチ。
動作の速さの系列が常に描かれる。
ミニ四駆で例えると何?
これねー、練習番長やねん。
練習番長?
練習が速い人、本番が遅い人。
あーなるほど。
残像拳。
フリ→オチ→フリ→オチ→フリ→オチ→フリのコマが無くてオチのコマ。
はい、天下一武道会を読み直そう。
ドラゴンボールでユニークなのは気を感じるという能力を噛ませるという事。
これによって全然別のところでやっているんだけど、それに対してある強さの度合いを比べたりとかそういうような強度の変化。
もしかしてこのレクチャーもそういう構造にしてる?
まだ喧嘩していい時間じゃない。
ダダ漏れかよ…
ベジータのじゃあ、死ねっというと緊迫した空気から一方その頃といった形で落ち着いてリラックスした状態の空気に切り替わる。
そこからまたベジータの殺戮シーンに切り替え。
そしてクリリン達の話に戻る。
ふたつの世界が同時進行しつつ、気でリンクしている。
*この間も講義と別のじゃぽにかサイドでは、うぉぉぉぉって言いながら如雨露の象を全力で破壊に取り掛かってる…
気を介する事でふたつのストーリー、コマ運びを切り替えながらひとつの物語として全く違和感なく繋げる事が出来ている。
気を感じるという設定を用いる事によって出来るようになったっていうのが、ドラゴンボール表現の真髄。
*気を送り出すじゃぽにかサイド。
そして、ここで壊れた象をきっかけにして講義サイドとリンクしだす。
「ご覧の通りですわぁ。」
「うん。」
「あれ、あんなに話してたのにね、言葉を失ったね?」
「いや、今までの鬱憤が溜まりまくってるから。それがこういう形で出たんですわ。」
『こんなことしていいの?』
「いやいや。」
「こういう事って何?」
『こういう事していいの?』
『オレが大事にしているのにさ。』
「いやいや、こういう形で現れてまだ良かったよ。」
「うん、まだマシ。」
『マシって何?どういう事?』
「だって刺されたかもしれないし、殺されるかもしれないし。」
「いいじゃん、物で。」
「いつも小難しいことを言ってお客さん置いてきぼりになってポカーンとして結局ねぇ、じゃぽにかの評価みたいなの全部ゴローちゃん(講義者)が持ってって。」
「一番汚い仕事全部やってるのに、全部ゴローちゃんの支配ですわ。」
「今日も嫌々やもん。」
『もう辞める?』
「もうプレッシャー、プレッシャーで。」
「えっ、何?」
「ドラゴンボールが好きっていうのはわかったよ。」
『いやいや、ドラゴンボールが好きっていう事を言いたいとかそういう事じゃなくてさ。』
『やりたくないんだったら辞めようよ。』
「あの程度のね、ところまで行ったらいいんですわ。」
「もう勝ち逃げですわ。」
「勝ち逃げだけされて、汚れ仕事を僕らがやって。」
『そう。』
「そうですわ。」
『凄い、いやーな感じだね。』
「いやいや、それはもうみんな一致団結ですわ。」
『いや、もう時間がないから。』
『もう、辞めよう。』
「そうやね、前から思ってたんや、全部ゴローちゃんの講座やしね。評価も全部ゴローちゃん。」
『だってオレ材料費とか出してるから。』
「いやいや、そんなオレだってこないだの横浜のとき、釣竿折れたよ?」
「オレはね、太郎賞のときの5〜6万返してもらってないんだよ。」
『いやいや、もうそれは無くなっちゃってるんだから。』
「えー、この間、30万売れたやん。いや、15万か。」
『それはまだ入金されてないから。』
「何に使った?」
『製作だよ、製作。』
「嘘でしょ。」
「あんなじゃぽにかの作品、そんなかかるわけあらへん。」
『あー、わかった、わかったよ、もう辞める。』
「何を?」
「じゃあ、もう今日が最後やね。」
『ああ、今日が最後。』
「あれあれ、じゃぽにかは解散、もう辞めよう。」
「そんなんやったらもう辞めよう。」
『寒いわ。』
「こっちの方が寒いわ。」
『おい、お前最後ラップやる予定だっただろ?』
「いやいや、そんなんもう、ええやん。」
「そんな空気読めるかっつうの。」
「ラップはお前がやるんだよ?」
『いやいや、てかじゃあ文句があるんだったらラップでいったら?』
「いやいやいや、あのラップとかね、ドゥドゥ」
〜ラップは略します(笑)〜
「止めて、ホント、無茶振りは。ホントに、何でもやるって言うけど無理がある。」
「よくやったよ、今。」
「ホント。」
「凄い、凄い。」
「もう辞めるんだもんね?」
「うん。解散。」
『あれから僕たちは何かを信じて来れたかなぁ』
夜空ノムコウが流れだして合唱でエンディング。
そんな講義パフォーマンスでした。
じゃぽにか
じゃぽにかによる今回の解説。
ドラゴンボール論のなかでとくに着目したのは以下のとおり。
其之九十ニ「最後の桃白白」(コミックス8巻 P114)、其之百三十「天津飯あせる!」(コミックス11巻 P140)、其之百四十九「世界征服」(コミックス13巻)、其之二百五十九「6個めのドラゴンボール」(コミックス22巻)
ドラゴンボールは、その漫画表現において物語世界の広大さを巧みに表現している。
とくにナメック星篇(コミックス21〜28巻)は、その時空間表現の極みであり、他の漫画に類を見ない1つの到達点であった。1つの惑星を舞台に、ドラゴンボール争奪をめぐってキャラクター達の思惑が錯綜する。
もしドラゴンボールの漫画表現が他より優れて「世界観の広さ」を実現しているとしたら、それはどのような構造によってであろうか。
この分析によって、漫画の時空間表現の一般的方法を開示するのみならず、情報の特殊な配置によって世界をより広く知覚するためのメディア理論が構築できるかもしれない。
グランドホテル方式ならぬ、いわばグランドプラネット方式である。
複数の登場人物の個別の物語を切り替えながら、ストーリー全体を展開させてゆく手法は映画でもよく見られる手法だ。
ナメック星篇でもこの手法がとられるが、ドラゴンボールはユニークな設定でデュアルストーリーのカットイン/アウトを実現している。
それが「気」という敵の強さを感知する能力である。